晩夏の風景

ことばと音楽、心についての散文

永久欠番と猫とアメリカ

 

「忘れられないひとがいる」という言葉は、「うち猫いるから海外旅行とかできないんだよね」に似ている、と最近たまに思う。わたしは猫を飼っていないので、概念としての話だ。

 

海外に長期で旅行とかしてみたい気持ちはあるけれどなにかと理由をつけて億劫で、だけど周囲に「行きたいのになんで行かないの」と問われればなんだかピンとくる答えに辿り着けない。でもそこに愛する猫がいるとするなら話は別だ。正々堂々とこう言える。

「うち猫がいるから海外旅行とかできないんだよね」

嘘はついていない。どこかに預ければいいという解決策を見て見ぬ振りしているだけだ。

 

忘れられないひとがいた。忘れられない夏があった。もう二度と戻れないその風景は胸の真ん中に今も焼きついていて、それ以上に価値のあるものなんかこの先の人生にひとつもないんじゃないかとすら思える。そのひとのまなざしは、夏の木漏れ日や、窓際に揺れるカーテンや、教室に舞う砂埃や、騒がしい笑い声や、流れていた音楽や、青みがかったワイシャツの光と一緒に、記憶の宝石になってしまった。思い出そうとするたびにどんどん透明に美化されていって、10年近く経った今ではもうすっかり原型を留めていないような気がする。

わたしはそのひとをほんとうに好きだったのだけれど、そのひとを青春のすべてだと思っていたのだけれど、そのひとはわたしを選ばなかった。

会うことがなくなってもそのひとのことを忘れられなくて、だけどそのひとがわたしを好きになることはきっとないだろうと分かって、わたしの人生の一番は「永久欠番」になってしまったのだと思った。

 

そこからわたしはまた恋をした。その方法はいつも同じだ。遠くから見ていて、好きだと思って、近づいて関係性を構築する前に早めに伝えて玉砕する。なんなら相手がわたしを一ミリも好きじゃないことを分かっていて玉砕する。そうして人並みに傷ついて、傷つきながら、安心していた。これは片思いなので、忘れられないひとがいるわたしでも許される恋なのだ。生涯の一番は永久欠番で、だけど今誰かを好きになるということを許されたいのだ。想われる恋では、そんな不誠実は許されない気がしていた。だから、どこへも進展も発展もしない不毛な恋がよかった。

 

最近、「忘れられない恋」にようやく見切りをつけた。きっかけはあんまりよく覚えていない。好きな人ができたわけでもないタイミングである日突然「もう、大丈夫だ」と思った。すっかり美化しきり、ほとんど偶像崇拝の域に達していた彼は、もはや本人とも解釈違いだろうと想像したらちょっと笑えた。

そこでわたしは初めて自分の問題に気がついた。

彼を好きだった間、わたしの孤独の理由はわたし以外のところに置いておけた。「忘れられないひとがいる」ことは、充分孤独の理由として成立した。それがわたしの自己防衛だったのだ。誰の一番にもなり得ない理由は、誰も一番に思えないからだと、そう安心できていた。心からの対話をせず、パーソナルスペースを割らず、肌に触れることもなく、誰にも等しく薄氷のような壁を隔てて、わたしは偶像と妄想に逃げていたのだった。

ほんとうはまともな恋愛をしたことがない。関係をきちんと築けたことがない。彼を好きでいることをやめたわたしは、ただの丸腰の恋愛素人だ。

「忘れられないひとがいる」と思うことで、両親のほんのりとした心配から、幸せそうだったり不幸そうだったりする友達の恋話から、世間のイベントから、ハッピーエンドの物語から、流行りの音楽から、たくさんの季節から、本当は誰かに愛されたいという自分の願いから、わたしは逃げ切ってきたのだ。「忘れられないひとがいるから仕方ない」と諦めつづけることが、わたしが自分の心を守る唯一の術だった。

 

わたしは猫を飼っていないけれど、海外旅行に行ったことがない。パスポートを持っていないし、英語も拙いので怖い。でもほんとうは旅行どころか、バークリー音楽大学に通ってみたいとか思っている。思っているだけ。

ほんとうの理由に、勇気を出したい。建前じゃなく、ほんとうの理由で、自分の心を見つめたい。

わたしの「忘れられない」はもうずっと長いこと一人芝居だった。違ったのはたぶんはじめの数瞬くらい。それ以降はずっと、不器用で臆病なわたしの自己保身の物語だった。

そう気付けたとき、わたしはわたしを、初めて好きだと思った。